今週のハイライト

G7サミットの中継で流れる広島の街。
どこもここも子供の頃から何度もため息をついた資料館。
友達と歩いた平和公園、正月毎年出向いた宮島家族、
よく夏休みにプールに連れて行った宇品のホテルだったり。

でもどことなくTVから流れてくるそこは
ちょっと厳粛に違ったようにも見え、
広島で行われた意味と意義は全世界に届いたのだと思う。
原子爆弾投下の痛み、苦しみを知っている広島に
いらっしゃった各国の首脳陣が
一堂に広島でご覧いただけたことは、意味深い。

ボクも被爆2世である。
女学生だった母は、広島の軍事工場で、軍服を作っているときに被爆した。
同じ場所にいた友人も命を落としたと聞いている。
母は、祖父が次の朝、迎えに来てくれ、
変わり果てた広島の地獄図の中を家まで帰ったそうだ。

そんな話もあまりしたがらなかった母。
ボクが結婚して子供が産まれ、夏休み広島に帰ってくる生活が始まった頃、
孫である息子を資料館に連れて行っては
そんな話をするようにようやくなった。

毎年、原爆の日の様子を広島で見るようになった東京生まれの妻が
東京とのその日の報道一つをとっても重みの違いに驚いていた。
日本の中でもそうなのだから世界のどこかに届いていたのだろうか?

どんな心境の変化だったかわからないが、
息子に自分の話をするようになった母。
戦争について、被曝について、色々あった偏見について。
そういえば、親戚のおじさんが、
「娘に結婚の何か差し障りがあったらいけないから
自分が被爆していることをよういわん」と言っていたことがあったなあ。
広島で生活していれば、
あの人もこの人も被爆していると当たり前のように周りにたくさんいて、
母のように口にもできない光景を目の当たりにした人がたくさんいた。

自分も子供心に
「わしゃ、ピカあたっとるけんそんなもんじゃびくともせんけーね」と
強い男の代名詞のように話す大人に
ピカってもんが最強の脅威だということを悟って育った。

息子にも母は、そんなことを伝えたかったのだろうと思う。
毎年1ヶ月ほど滞在していた夏休み。

市民プールに行った帰りに
資料館に寄っては、はだしのゲンの漫画や、映画を、
記帳された皆さんの感想なども見るようにもなった。
今30代になった息子がどう感じているかわからないが、
広島に産まれた母の重い歴史の切れ端を
覚えていて欲しいと願っていたに違いないと思っている。



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