本は読むものか、感じるものか。そんなことを考えたのは久しぶりだった。
ケン・リュウの『紙の動物園』を読んで、
そんな青臭い問いが胸に浮かんできた。
ちなみに「青臭い」という言葉、最近じゃあ褒め言葉になってるらしいけど、
ぼくの辞書じゃ、まだちょっと「痛い」に近い。
で、この『紙の動物園』。読んでるとね、痛いんです、心が。
しかも、じんわり来る。ガツンと殴られるような衝撃じゃない。
むしろ、背中に置かれた手のひらのぬくもりみたいな、
でもそれが気がつくと、氷みたいに冷たいものに変わってたりする。
あれ、さっきまであった温もりどこ行った? ってな具合で。
表題作の『紙の動物園』。これはいけない。
読むと親不孝者は泣きます。いや、親孝行してる風の人も泣きます。
アメリカ生まれの少年と、
中国から来た母とのあいだに漂う文化と愛情のズレ。
折り紙の動物が魔法で動く、ってだけ聞けばファンタジーだと思うでしょ?
でもね、それがただの仕掛けに過ぎないってことに、
最後の数ページで気づかされる。痛い。ずるい。うまい。
この作家、アジア系アメリカ人としての「居場所のなさ」ってやつを、
グローバルな物語に昇華させてる。
それがどの短編にもじんわり染みてて、だけど説教臭くない。これが大事。
日本でも多文化共生とか言ってるけど、その言葉を口にした瞬間に
「お前は誰目線だ?」って思いたくなる。
でも、ケン・リュウは違う。彼は語るんじゃなくて、見せてくる。
時にはSFの顔で、時には古代中国の歴史劇の顔で。
お前、どんだけ顔あるんだよ、って言いたくなるけど、
どの顔にも魂があるから憎めない。
個人的に好きだったのは「良い狩りを」。
スチームパンクと中国神話の融合なんて、
口に出すとB級映画っぽいけど、これがまた泣ける。
恋と復讐と変身と、まるで香港映画みたいな熱さがあってね。
しかもちゃんと現代のテーマも潜ませてある。
ジェンダーとか身体とか、そういう話。
でも決して説明しない。感じろ、ってやつだ。
で、感じてしまったぼくは、読み終わって本を閉じて、
しばらく机の前でぼーっとしてしまった。
いや、ぼーっとしてたというより、魂がちょっと旅に出てたんだと思う。
この本、読み終わってちょっとだけ優しくなれる。
少なくとも、自分の中の紙でできた動物たちに、
もう一度息を吹き込んでみようかな、なんて気分になる。
そういうの、大事だと思うんだよね。