今日のつどいのひろばは、仏たび。神たび。番外編として、
昔ながらの盆踊りについてお届けしました。
取材に伺ったのは、北広島町大朝のお寺「上原山 超専寺」。
お盆に門徒さんやご近所の方が集まって、
盆会(ぼんえ)という盆踊りを行っています。
実は、みなさんにとって馴染みのある、
地域の公園などでやぐらを組んでその土地の音頭に合わせて踊る盆踊りは、
戦後からのスタイルで、昭和ごろにできたものです。
古くから伝わる盆踊りは、もともとお寺の境内で行われていたそうです。
超専寺で踊りを披露されるのは、
北広島町千代田の「高龍会盆踊りクラブ」の皆さん。
8歳から60代までの20名のメンバーがいらっしゃいます。
地域の音頭である、大朝音頭と新庄音頭、
そして昔ながらの盆踊りを、高龍踊りという曲目に合わせてを踊られます。
昔ながらの盆踊り、歌詞は「口説(くどき)」と呼ばれます。
「歌い手」が節回し豊かに口説き、
「踊り手」が合いの手を入れながら、輪を作って舞います。
高龍会盆踊りクラブの「高龍踊り」では、
両手に日の丸の扇子を持ち、回りながら踊るなど、
盆踊りのイメージである、繰り返しの動きとは違ったそうです。
曲目全体を指す「高龍踊り」は、
「平和踊り」や「初盆踊り」といったいくつかの曲で構成され、
「踊りかえます」といった口説きでつながっていきます。
放送では、一部お聴きいただきました。
高龍踊りには、長い歴史がありますが、資料などは残っていません。
長らく途絶えてしまっていましたが、40年前に復活させようと、
高龍会盆踊りクラブができました。
現在のメンバーの皆さんは、
80代になる先代の口伝のみで踊りや歌を覚えたそうです。
1年に一度、超専寺で開かれる盆会のみの開催となっています。
メンバーの皆さんにもお話を伺いました。
地域の盆踊りを残していこうという思いや、
難しいけど楽しくなっていく、自分が楽しんでやらなくちゃ楽しくない、
踊る場があるからこそ繋げていける、といった思いをお話しいただきました。
しかし、クラブの会長、川原さんは、コロナで中断していた期間もあり、
やめることも考えたそうです。
ただ、練習の際、メンバーの皆さんの意欲を感じ、続行を決断。
残していくために、地域の保存会としての登録も検討されているそうです。
超専寺の副住職、上原さんにもお話を伺いました。
お盆は、お墓参りなどを通して、自分に繋がりのある方を偲びつつ
いろいろなことを教えていただく場であり、盆踊りもその一つ。
そういった機会を大切にしていくことが、これからも必要なことですね。
超専寺の皆さん、高龍会盆踊りクラブの皆さん、ありがとうございました!
東林館高等学校理事長 喜田先生の親子教育相談所。
今月のテーマは「子どものしかり方」でした。
子育てにおいて、叱ることは必要ですが、
怒ることは自分の感情の発散になってしまうので、必要ないとのこと。
「褒める子育て」がブームになっていますが、
効果的な叱り方にはデータやエビデンスがなく、褒めるより難しいそうです。
何度叱っても伝わらない時には、伝え方を変えてみること、
きつく叱りすぎたら、素直に頭を下げること、
家族の連携プレーで子どもに伝えること、など、お話しいただきました。
ご家族で気をつけたいのは「叱っている人を悪者にしない」ことだそうです。
また、長期休みでお子さんとの時間も増えている今、
叱る時に気をつけたいことについても伺いました。
詳しくは「こちら」をチェック!
今日のつどいのひろばは、
日本料理の基礎となる「お出汁」について。
日本料理店「悠然いしおか」の 石岡慎吾さんに教えていただきました。
石岡さんは、料理の世界に身を置かれて23年目。
料理もアナログからデジタルの時代に、機械を使うようになっていますが、
石岡さんは日本古来の文化を掘り下げたい、と流れに逆行しているとのこと。
今日は、スタジオに、昆布・干し椎茸といった精進出汁、
いりこ出汁、干しエビのダシなど、さまざまお持ちいただきました。
お出汁をとる、というと、少し構えてしまいそうですが、
冷蔵庫内で半日ほどつけ、使うときに火にかけるだけでいいそうです。
ちなみに分量は、昆布だしは水3合(540cc)に対して昆布10g、
いりこ出汁は、水3合にいりこ15gです。
火入れをしておけば、冷蔵庫内で4、5日は持つそうですよ。
さらに、スタジオで一番だしをとっていただきました!
先ほどの昆布だしを温め、沸く直前に昆布を取り出して
20gのかつお節を入れると完成です。
たくさんのお出汁をいただいた岡さん。
どれも味付けなどされていないのに、しっかり味がついていたそうです。
贅沢な時間でしたね!
ただ、今日スタジオでとっていただいた「一番だし」、
昆布やカツオの漁獲量が減っていることが問題となっています。
石岡さんは、海のことを考えて
山に入り、原木椎茸などを使っていくのかな、と仰っていました。
美味しいお出汁を教わりながら、
環境問題と料理の繋がりについても考える時間となりました。
わたし達が最初に出会った原爆をテーマにした作品といえば、「はだしのゲン」、
作者である中沢啓治さんが被爆した体験を通して描かれた漫画で、
1973年から「週刊少年ジャンプ」で連載がスタート、今年は連載開始50年という節目の年でもあります。
そんな「はだしのゲン」の舞台となった広島の街を、実際に歩いて案内する方がいるということで、
会いに行ってきました。NPO法人アントヒロシマの渡部久仁子さんです。
まずは、中沢さんのご自宅があった、舟入本町からスタートします。
中沢さんは当時6歳で、7人家族でした。お父さん、お母さん、4男1女の7人家族。中沢さんは三男でした。
原爆投下の8月6日の時、お兄さん2人は学徒動員や集団疎開で家にいなかったため、5人で暮らしていました。
家族はみんな家にいて、中沢さんは通っていた神崎国民学校に登校します。
ひとりで登校した中沢さんは、門の近くで一人のおばさんに声を掛けられます。
学校のコンクリート塀を背にして話をしていました。
その瞬間、中沢さんは白に、内輪がリン燃やしたような色で、
外輪がオレンジと赤の色をした火の玉が目の前にパッて入ってきて、
そのまま気を失ったと言います。
おばさんは熱戦を浴びて、顔がどろどろに溶けてしまった。
なん10cmかの違いが生死を分けたことになります。
神崎国民学校は、爆心地から南西におよそ1.2キロ、
神崎国民学校は、木造二階建ての校舎。爆風で倒れ、火に包まれたと言います。
すでに学校に登校していたおよそ25名は、校舎の下敷きとなり亡くなりました。
神崎小学校には、原爆でなくなった児童、教職員あわせて147名の慰霊碑が建立されています。
中沢さんはお母さんがいたという情報を聞き、
被爆した神崎国民学校のある舟入中町から、舟入川口町の電停へと向かいます。
ここでお母さんと再会、そして妹さんとなるとも子さんが生まれたことを知ります。
実際に歩いてみると、その過酷さが身体的につかめる感覚があります。
渡部久仁子さんは、現在42歳、
2007年に、広島市内で行われた中沢啓治さんのトークショーに参加し感銘を受けたと言います。
そこからはじめてヒロシマに向き合うことを決意し、
何が起きたことを調べ、原爆の語り部に直接お話を聞く活動もはじめました。
この「はだしのゲン」のガイドも自主的にはじめたもの、
すべてはたくさんの人に、原爆の実相、そして「はだしのゲン」を知ってほしいという思いからはじまっています。
渡部さんは、中沢さんに、信じてもらったことへの感謝が大きいと話します。
当時20代でヒロシマのことを知らなかった渡部さんのことを信頼し、
どんな企画でも、途中で口をはさむようなマネはしなかった。
だからとにかく恩を返したい気持ちがとても強いようです。
改めて渡部さんに教わったのは、
自分の思いを押し付けずに、相手を信頼して伝え続けること。
それが伝え継ぐことの1歩なのかもしれないですね。